2009年10月23日金曜日

我が読書~至福のひと時~

 本を読むようになったのはいつの頃の事だろう。
私の頃は読み聞かせなどなかったから、何となく読み始めたような気がする。記憶にあるのは小学校の頃に、アルセーヌ・ルパンシリーズにハマっていた事だ。「奇巌城」「八点鐘」「813」などは夢中になって読んだものである。中学生の頃は星新一が記憶に残っている。高校生の頃は何といってもフレデリック・フォーサイスだし、また夏目漱石を読みまくったのもこの頃だ。

 大学に入るとさらに幅が広がる。といっても小説なのだが、国内外の文豪のものから「風と共に去りぬ」のような映画化されたものなどを暇に余せて読んだものである。進歩した事と言えばニーチェやキルケゴールなどの哲学系が加わった事だろうか(でも正直難しかった・・・)。

 社会人になって何年かしてからいわゆるビジネス書が加わった。自分なりに身の回りから得られる事だけでは限界があるとわかったし、仕事や人生のヒントを求めていくと自然とそうなっていったのだ。最初の頃に読んだ落合信彦の「狼たちへの伝言」シリーズ(ビジネス書であるかどうかは微妙だ)などにはメチャメチャ刺激を受けた。ビジネス書も読み出すとけっこう面白いもので、今では「勉強のため」という意識はなく、ただ面白いから読んでいるだけである。

 今でも次から次へと本を読んでいるが、日常生活の中で本を読む時間を確保するのはなかなか難しい。そんな毎日の読書時間は通勤時間だ。片道正味40分くらいは読めるだろうか。このひと時はたまらない。

 よく「サラリーマンといえば痛勤地獄」と言われるが、私には当てはまらない。なるべく各駅停車など比較的空いている電車に乗って、じっくりと本を読む。そんな至福のひと時ゆえ、「痛勤」とは無縁だ。同僚の中にははるばる片道1時間半以上かけて通ってくる者もいる。「毎日大変ですよ」とよくぼやいているが、心の中で「でも本がたくさん読めて羨ましいですね」と思ってしまう(でもそのために遠いところに住もうとはさすがに思わないが・・・)。

 夏の暑い時も、冬の寒い朝も、雨の日も本が読めると思うと駅へ向う足も自然と軽くなる。こうしてみると、本来辛いかもしれない時間帯をうまく至福のひと時に代えられているようだ。自分は案外うまく生きているのかもしれないと思ったりする。困る事と言えば読んでいる本が感動系のものだったりした時だ。涙が溢れそうになって戸惑った事もたびたびある。こういう時は電車の中はうまくない。

 今の悩みはこうやって実際に読める本に比べて読みたい本が多すぎる事だ。人によっては速読法をマスターして対応しているようであるが、どうも私の好みではない。手帳の読みたい本リストは長くなる一方だし、そのうちの一部はアマゾンで買ったり図書館で借りたりできるものの、多くがリストに載ったまま終わってしまっている。本棚にはもう一度読みたい本が埃をかぶっているし、これが大きなストレスだ。このストレスを解消するには通勤時間はあまりにも短いし、それ以外にやりたい事、やらなければならない事はあまりにも多い。

 やがて定年を迎えたらどうなるだろうと、先日ふと考えた。通勤時間がなくなったらどうしよう。その時は、駅前のスタバでゆっくりコーヒーを飲みながら本を読むなんてのもいいかもしれない。それを毎日の日課にする生活なんて素敵ではないか。

 その時まではみんなが顔をしかめる痛勤時間を至福のひと時に代えて、日々ささやかな幸せを味わいたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「東京裁判を読む」半藤一利/保阪正康/井上亮


      

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