2009年2月8日日曜日

頼まれ事

私はよく人にモノを頼まれる。
まあ誰でも頼まれ事はするであろう。
私も特別その頻度が高いというわけでもない。
ただ、誰かに何か頼まれた時、一つだけ心掛けている事がある。
それは「断らない事」である。

もちろん、妻からの頼まれ事のようにそれ自体「断りたくても断れない」ものは別としてであるが、基本的に何でも受けることにしている。中には能力的に明らかにできない事や、例えば日程的に無理があったりしてやむを得ない場合は当然この限りではない。
その旨きちんと説明してお断りする。

が、そういうのは極々例外だ。
基本的に何でも受ける。
昔からそういう性格だったわけではない。
むしろ昔は面倒な事はなるべく避けるようにしていた。
だがいつのまにかこうなっていた。

というのも、「頼まれる」という事は「認められる」という事だと思うようになったからである。
頼んできた相手は、自分であれば引き受けてくれる(引き受けてほしい)と思っているから頼むのであり、自分はそれだけその相手の中に存在感を占めているということになる。
もともとそんなに社交的でもないし、友達が多いわけでもない。
謙遜でもなく、実際高校・大学時代は交友関係は極めて狭かった。
無理に広げたいとも思わなかったし、広げるのも苦痛だったのだ。
なので自分の存在自体も極めて狭い範囲にしかないように思えていた。

何気なく引き受けた頼まれ事もやって喜ばれれば気分もいいし、頼まれる事によって自分の存在感を確認できるような気がするのも確かである。何でも引き受けていると、いつのまにか面倒な事を押し付けられる便利な存在となるかもしれないという危惧もあるかもしれない。
だが幸い今のところそんな気配はない。

思い返してみればいろいろ頼まれたものだ。
結婚式の司会や会議の議長、ラグビーは高校・大学とも学年幹事だし、さらに大学のラグビー部に至っては4学年分の取りまとめ幹事だ。その他に世話人などをやっているのもあるし、くだらないものまで入れるとけっこうあるものである。

でもそれでもありがたいものだと思っている。
声をかけられる事は見過ごされる事から比べると遥かにいい。
そうして目に留めてもらえたというだけで引き受ける理由になると思っている。

その昔は何か世の中に役に立つようになりたいと思っていたものである。
今となっては「世の中に」などという大事は難しい。
だが目の前の一人の役に立つ事も世の中の役に立つ事の一つだ。
千里の道は行けねども目の前の一里なら可能だ。
ならば目の前の一里から一歩一歩進んでいくのも悪くはない。
これからもそういう精神で頼まれ事を引き受けていこうと思うのである・・・
    
   

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