2026年8月19日水曜日

映画『ロストケア』を観て考える

 毎週末の映画鑑賞を趣味としているが、先日、『ロストケア』を観た。松山ケンイチと長澤まさみが主演のこの映画、高齢者の殺人を巡って検事と被告とが対峙するというもの。なかなか考えさせられるものであった。物語は松山ケンイチ演じる介護施設の職員が、自ら勤務する施設の高齢者41名を殺害するというもの。被疑者である主人公は、逮捕されて長澤まさみ演じる検事の取り調べに対し、「殺人ではなく救いだ」と語る。というのも、殺害された高齢者は認知症も進んでいて、その介護が家族に重くのしかかっていたもので、亡くなることによって家族が介護から救われ、自分の人生を取り戻せているという主張である。

 実際、その例として前半でとある老人の様子が描かれる。介護スタッフが訪問して体を拭いたりする。本人は話し掛けても返事もせず、されるがまま。食卓には食事後の食器がそのままになっている。そこへ娘がやってきて、食卓を観て一瞬戸惑うも、後片付けを始める。娘には子供がいてその送り迎えもあり、父親とは別れたようで生活のために仕事もしている。すべてワンオペで、介護スタッフはその様子を見て「限界だね」とささやき合う。父親が亡くなった(殺された)あと、ゆとりができたその娘は子供との会話にも笑顔が生まれ、再婚の話も進む。殺人は確かに悪であるが、果たしてそうなのか。娘は確かに「救われている」のである。

 人を殺すことが良くないことは当たり前のことで疑う余地もないことである。十戒にも示されている通り、人類共通の価値観である。しかし、この映画では本当にそうかと問い掛けられる。人類共通の価値観とは言え、そこには例外もあって、国家によって行われるもの(戦争、死刑)や法律によって認められるもの(正当防衛、緊急避難)などの例外はある。ここではそれに当てはまらないものである。それはすなわち法的には違法行為であり、だから主人公も逮捕される。最終的な刑は明らかにされないが、極刑でもおかしくはないのだろう。しかし、その動機は確かに「救い」である。

 主人公をその行為に走らせたものは、自分自身の経験。父親の介護に携わり、介護離職を余儀なくされ、生活保護も「働けるでしょう」と断られ、困窮の結果、父を殺している。以前、同様に介護で困窮した息子が母親を殺害(心中未遂)したという事件があった。この映画の主人公も同じ境遇である。個人でできる限りのことをして、それでもどうにもならなくなっての行為である。おそらく、殺害された父親も感謝こそすれ恨みはしないだろう。むしろ、可能であったなら自ら命を絶っていたかもしれない。そうした経験があるからこそ、同じ苦しみを味わう他人の姿を黙って見ていられなかったのだろう。

 そんな主人公と相対する検事は、主人公の行為を糾弾する。それは当然であるが、検事もまた認知症になりかかっている母親がいて、しかしながら立派な老人施設に預けている。ギリギリまで自分で介護を余儀なくされた主人公と、月に何度かお菓子をもって訪問するだけの検事。その対比が何とも言えない。立派な施設に預けられる人は理想論を唱えられる。しかし、そうでない人にとって理想論は空虚である。生活保護もやたらに認められないのは当然であるが、介護で働けない主人公に「働けるでしょう」と言って申請を却下する担当者の姿にはやりきれないものがある。

 仮に主人公の父親が認知症ではなくてしっかりとした意識があり、動けなくなった自分を介護するために息子が困窮していくのを見ていたらどう思うであろうか。それでもし父親が息子のために自ら命を絶とうとしたら、それでも「自殺はいけない」と言えるのだろうか。この映画のように困窮した息子が父親を殺害した行為を罪に問えるのだろうか(現実の事件ではさすがに執行猶予の温情判決が出た)。もちろん、そこに至るまでに何とかしないといけないというのは正論だが、現実にその正論が機能するかは疑わしい。誰もがこの映画の検事のように立派な介護施設を利用できれば問題は何もないわけである。

 「救う」という動機が善だとしても、やはりそれを何の権限もない個人が勝手にやっていいという事はないし、何より41人という数字は異常であるし、主人公が罪に問われるのは仕方がない。しかし、そうした要素を除いたとして、この映画の「救い」が本当に糾弾されるべきなのかは難しい。少なくとも長澤まさみ演じる「恵まれた」検事が主人公を糾弾する姿には違和感を禁じ得ない(本人もまたそれを感じているように描かれてはいるが)。実際のケースとスレスレではあるが、映画は時にいろいろな事を考えさせてくれる。いつか自分事になるかもしれず、観終えて重いものが残った映画である。

 これから高齢化社会に拍車がかかる。何より自分の番がもうそこまで迫ってきている。寿命が長くなるのは本当にいいことなのか、何となく考えずにはいられない。主人公の姿が自分の息子の未来の姿にならないようにしたいと切に思う。そこに至る前に、寿命が尽きてほしいと思うし、いざとなったら自分で自分の人生に終止符を打つ選択肢も選べるように意識を保っていたいと思う。それと同時に世の中の「進歩」にも期待したいと思うのである・・・


映画『ロストケア』より


【本日の読書】
全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 物理学と神 (講談社学術文庫) - 池内了 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛




2026年8月16日日曜日

論語雑感 郷党第十 (その5)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
執圭、鞠躬如也。如不勝。上如揖、下如授。勃如戰色。足蹜蹜如有循。享禮有容色。私覿愉愉如也。
【読み下し】
けいれば、きくきゅうじょたり。えざるがごとし。ぐることはゆうするがごとく、ぐることはさずくるがごとし。勃如ぼつじょとしてせんしょくあり。あし蹜蹜しゅくしゅくとしてしたがるがごとし。きょうれいにはようしょくり。覿てきには愉愉ゆゆじょたり。
【訳】
他国に使いし、圭を捧げてその君主にまみえられる時には、小腰をかがめて進まれ、圭の重さにたえられないかのような物腰になられる。圭を捧げられた手をいくらか上下されるが、上っても人にあいさつする程度、下っても人に物を授ける程度で、極めて適度である。その顔色は引きしまり、あたかも戦陣にのぞむかのようであり、足は小股に歩んで地に引きつけられているかのようである。贈物を捧げる礼にはなごやかな表情になられ、式が終って私的の礼となると、全くうちとけた態度になられる。
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 論語も細かく読んでいくと、必ずしも教訓めいた言葉だけが並んでいるのではなく、一見何のことだかよくわからない事もかなり書かれている。ここでは他国に赴いて君主にまみえた時の態度について述べられている。それは何よりも自国の君主に対して取るような恭しい態度を示している。これも礼儀として考えるのであれば当然のことである。おそらくここでは「友好国」という前提があると思う。友好国であれば、失礼な態度はすなわち友好関係を阻害する可能性もあるわけで、当然と言えば当然である。

 『のぼうの城』という映画があった。天下統一を図る豊臣秀吉の小田原攻略の一環で、石田三成が2万の軍勢を率いて主人公成田長親が留守を預かる忍城を包囲する。成田の軍勢は3千であり、戦力差に圧倒的な差がある。城主の成田氏長は開城を許可して小田原に向かっている。三成の使者が長親に面会し、開城を促す。その態度は長親を見下した横柄なもの。家臣は皆忸怩たる思いを抱えてこの会談を見守る。すると、長親は何とここで戦うと宣言する。使者はこの予想外の態度に慌てて再考を促すが、長親の考えは変わらない。

 当時、武士は相手と座って話す時、刀を右側に置いていたという。それは(右利きであれば)「すぐに抜けない位置」であり、それが礼儀だったそうである。このシーンで長親が戦いを宣言すると、家臣たちが一斉に刀を左側に置き換える。なかなか血が湧くシーンであったのを思い出す。映画であるのであくまでフィクションであるだろうが、もしもここで相手の使者が礼を持って長親に接していたら、あるいは長親は城主の指示に従って素直に開城していたかもしれない。この映画の1番の見所だと個人的には思う。

 日露戦争の末期、乃木将軍率いる第三軍は多大なる犠牲を払って旅順要塞を攻略し、乃木将軍は降伏したロシア軍の司令官ステッセル中将との降伏式に臨む。式が終わって双方並んでの記念撮影では相手に帯剣を許可したという。これは勝者として奢ることなく、敗者である相手を立てる行為で、当時は色濃く残っていた武士道精神の現れだったのだろう(戦国時代にはなかったのだろうか)。ステッセル中将とてこうした扱いを受ければ、否応なく「礼には礼をもって」対応しなければならなくなる。

 おおよそ人間関係というのはみなこのようなものではないかと思う。特に立場が有利な者ほど、不利な者に対して礼を持って接することが大切で、それでこそ相手の敬意を獲得できるのではないかと思う。現代でも上司と部下、取引先において発注先と受注先などにおいて力関係を背景とした「上から目線」になりがちである。父もかつて自営業をしていたが、発注先の経理部長は、母が集金に行った際、かなり横柄な態度であったらしい。ビジネスにおいては、会社対会社の力関係が自らの力のように勘違いしてしまうのかもしれないが、あまり見られたものではない。

 「実るほど頭を垂るる稲穂かな」ではないが、常に人には丁寧に接すべきだと思う。自分の方が関係性において上だと思われる時には、常に意識したいことである。もちろん、ビジネス関係において、特に親しくなった人とは、友人関係を築けたらと、友人の数が少ない身としては思う。「人には常に礼を持って接する」ことをこれからも意識していたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 物理学と神 (講談社学術文庫) - 池内了 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛




2026年8月12日水曜日

マリッジリングを外す意味

 昔、映画やドラマのバーとかの中でのワンシーンで、男がマリッジリングを外して女性を口説きに行くシーンがよくあった。映画やドラマはある程度誇張する部分があるからなんとも言えないが、自分は結婚したらマリッジリングをずっとつけていようと思った。例えそれが他の女性を口説きに行く時でも、と。私は変なところで「常に堂々としていたい」という気持ちがあり、女性を口説きに行く時にマリッジリングを外して(独身のフリをして)口説きに行くのは男らしくないという感覚があったのである(そもそも口説きに行く時点でアウトだという意見はこの際なしにする)。

 マリッジリングを外して口説きに行くのが、ドラマ的にはカッコいいと創り手の方では思ったのかもしれない。しかし、よくよく考えれば、ぜんぜんカッコよくないだろうと感じていたのである。コソコソと指輪を外して、独身のフリをして口説くなんてチンケな男ではないかと。それに若いうちならいいが、男も妙齢になってくると、逆にその年で独身なのかという方がおかしいようにも思う。その場合、「結婚もできない男」と思われる可能性だってある。もちろん、訳アリというケースだってあるから状況はさまざまかもしれない。

 映画やドラマでは、その夜限りのアバンチュールのためにだけリングを外すということかもしれないが、女性の方にしたって、リングがあるかないかを気にするという事は、真剣交際を考えるという事だろうから、そういう女性をそもそも口説けるのかということもあるし、そんなことまで考えない軽いノリの女性ならリングのあるなしを気にするだろうかということもある。映画の中の象徴的な意味合いでリングを外すという「演出」であるなら理解できるところであるが、実生活では意味があるのかという感じがする。

 もっとも、一時的に家庭を忘れるという自分自身の精神的な意味合いならわかる。相手を偽るのではなく、自分に巻かれた鎖を解きほどくという意味合いである。よほどひどい男や無感覚な男ならともかく、普通の感覚の妻帯者なら罪悪感を持つわけで、その罪の意識と快楽との境界線の葛藤をリングを外すという行為で乗り越えるという意味合いなら理解できる。女性には理解できないかもしれないが、それが男のどうしようもない本能なのだろうと思う。

 結婚した時に、何があっても外さないと決めたマリッジリングであったが、いつしか外してしまった。それは他の女性を口説こうとしたのではなく、妻との関係にもう嫌気がさしたからに他ならない。昨年、別居することにして家を出たが、もうその何年も前からリングを外している。たぶん、自宅に残してきた机の引き出しにまだ入っていると思うが、大事にしまっているというものではなく、とりあえず入れとこうと無造作に突っ込んだ記憶がある。その時すでにもう心は妻から離れてしまったのである。なんでそうなったのかはもうどうでもいい事である。

 これからは堂々と女性を口説けるわけであるが(と言っても正式な離婚はもうちょっと先である)、ではと言って相手を探す気は毛頭ない。もう誰かと一緒に暮らすのはごめんだという気持ちが強く、このまま同居している親が亡くなった後は独りで暮らしたいと考えている。そもそもバツ2、バツ3という人の話を聞くが、最初の結婚の破綻で何を学んでいるのだろうと思ってしまう。相手を替えれば変わると思っていたならそれは短絡的としか言いようがない。せめて最初の結婚の教訓を活かして2度目でうまく行くところまでだろう。

 ずっとこだわってきたゆえに、マリッジリングを外すという意味は私自身にとって大きな意味を持ち、以来、子供と一緒にその母親と暮らすという意味合いで家庭生活を送ってきた。私にとってその時から、一緒に暮らしている女性は「我が子の母親」であった。もう一緒に暮らす事はないが、「子供の母親」との一定程度の付き合いは生涯続くだろう。それにしてもあのマリッジリングはどうすべきだろうかと思う。捨てるのにはなんとなく抵抗がある。それは結婚の証という「象徴価値」ではなく、単に何万円かしたものという「物価的価値」からもったいないと感じるのである。さりとてもうはめる事はないし・・・

 外したはいいが処分に困る。今になってみれば厄介なものに他ならない。いつか夕陽が沈みゆく海に向かってカッコよく投げるのもいいかもしれないと思う。そんなことを候補の1つにして、結婚生活の証の処分については、これからゆっくりと時間をかけて考えていきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 物理学と神 (講談社学術文庫) - 池内了 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛




2026年8月9日日曜日

万座温泉2026

 ここのところ夏休みに温泉に行くのが恒例になっている。今年もまた昨年に続いて万座温泉に行ってきた。元はと言えば、母親を好きな温泉に連れて行ってあげようというところから始まった温泉巡りであるが、いつしか温泉に入るのが自分自身の楽しみにもなっていて、一石二鳥というわけである。人に話すと「夏に温泉?」と驚かれるが、万座温泉は標高1,800mに位置していて、「星に一番近い温泉」とも言われているらしいが、朝晩涼しくて入浴には程良いのである。ラグビーであちこちガタが来ている体には心地よい。


 大体のパターンは決まっていて、夕方チェックインすると母はすぐに入浴、私は周辺の散策である。今回は昨年に引き続き万座亭に宿を取ったが、途中で見かけた牛池へとまずは向かう。なんの変哲もない池であるが、トンボが無数に飛び回っている。昔、小学生の頃、長野県の御代田に住んでいた従兄弟のところに毎年春夏の休みを利用して2週間ほど遊びに行っていた。その頃、外へ出ればトンボもたくさん飛んでいて、捕まえてみたりしたこともある。そんなことも思い出される。


 入浴はいつも3回。夕食前後と翌朝である。夕食前は通常の入浴と同様、体を洗って汗に塗れた体を洗いながす。夕食後はただ、湯に浸かるだけ。どちらも露天風呂に入る。万座温泉は周辺に硫黄臭が漂っていて、気分を盛り上げてくれる。乳白色の湯はもちろん硫黄臭付きでゆったりと浸かると何より体に溜まった疲労が抜けていく感じがする。ラグビーの影響で慢性的な痛みを抱える首と肩と膝は入念に動かして湯治気分に浸かる。夕方は澄んだ空気、夜は真っ暗な夜空がさらなる演出を加える。

 部屋にはエアコンがないが、うっかり窓を開けて寝ると寒くて目が覚めそうである。この時期でも布団をかけて寝られる。布団の中はたちまち温泉臭に包まれる。翌朝、朝食前に朝風呂。澄み渡った青空の下で湯に浸かる幸せ。こうして母を連れて温泉に行けるのも後何回だろうと考えてみる。すでに衰えた記憶力と思考力では浴場から部屋に戻ることすら不可能になっている。一緒に入って背中を流してあげることはできないが、せめて浴場と部屋の往復には付き添ってあげられる。それしかできないが仕方がない。

 この頃、遠出をするのを嫌がるようになった親父は、1週間前から毎日「週末は温泉」と言い聞かせてきたが、今回もやっぱり朝になって「聞いていない」と言い出す。機嫌も悪くなり、無理に連れていくこともないと諦めた。弟も呼んで家族4人これが最後の家族旅行かと思っていたが、残念ながら1人ドタキャンで料金も戻ってこない。家族4人の家族旅行は残念ながらもう無理かもしれない。弟と2人で親父の分の夕食を食べながら、そんな話をする。

 チェックアウトして山を降りる。途中、草津へ抜けるルートは火山の噴火の影響で休憩所が封鎖されてしまったが、快晴の下眺めはいい。ただ、運転が上手いと自称する弟は景色を楽しもうという気持ちはサラサラなく、一気に降りてしまう。母と2人の時は、ところどころで車を止めて景色を楽しむだが、弟には風流を解する気持ちがない。そして望月へと抜け、祖先の墓参り。母方の祖父母と伯父と親戚とが眠る。子供の頃遊んでもらったおじさんがどういう関係だったのか、改めて知る場所でもある。

 小学生の頃、親に連れられて遊びにきた祖父母の家はすでになく、見知らぬ人が家を建てている。子供の遊具などがあり、たぶん若い夫婦が住んでいるのだろう。50年前にここに住んでいた人のことなど想像もできないだろう。あさま山荘事件のニュースもリアルタイムでこの祖父母宅で見た記憶がある。裏山に上り、見つけた風船にくくりつけられていた手紙に返事を出し、しばし文通した記憶もある。個人情報の緩やかな良き時代の思い出である。

 暑さが満ちた東京に帰ってくる。温泉はまだちょくちょく行こうと思うが、万座温泉はまた来年になるだろう。母とはいつまで一緒に行けるだろうか。一期一会ではないが、毎回これが最後かもしれないという思いで可能な限り続けていきたいと思うのである・・・



2026年8月5日水曜日

東野圭吾

 我が目を疑うというのはこのことを指すのだろうかと実感したのは、「東野圭吾さん死去」のニュースに接した時である。こうしたニュースに間違いがあるとは思わないが、まず浮かんだのは「本当なのか、誤報ではないのか」という感情。年齢的にはまだまだそんな歳ではないと思っていたが、68歳と聞いてまだ十分若いと改めて思う。現代ではまだまだお亡くなりになるような年齢ではない。大腸がんとのことであるが、がんも現代では必ずしも不治の病ではない。それでも亡くなったということは、いろいろと現代の医学でもダメな理由があったのだろう。非常に残念である。

 初めて東野圭吾作品に触れたのは、どれだったかもう記憶にない。おそらく原作を読むよりも映画が先だったように思う。記憶を辿っていくと、たぶん映画『秘密』あたりだろうと思う。事故で亡くなった妻の意識が娘に移ってしまうという奇想天外なストーリー。最近、ネット漫画で『妻、小学生になる』というのを読んだが、コンセプトとしては同じだと感じたものである。単純に妻と娘が入れ替わったドタバタ騒動ではなく、深い人間ドラマに心打たれたのを覚えている。そのあとすぐに原作小説に手を出したのも覚えている。

 東野圭吾と言えば、ミステリー作家ということになるのだろうと思う。しかし、どうもそこに入りきらないように思うのは、上記の『秘密』だけでなく、やはり映画化された『手紙』も心打たれるものであったからである。よく小説を映画化した作品は、「観てから読むか、読んでから観るか」は迷うところ。しかし、東野圭吾は基本的に「読んでから観る」方であった。もっとも、最初の頃は読む方に手が回らなくて、『レイクサイドマーダーケース』『g@me』などは観る方が先行した。『手紙』は原作を読んでから映画を観ているが、これも心打たれるというか、切ない物語である。

 読み始めて東野圭吾が「お気に入り作家」になるのに時間はかからなかったが、ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズのように、同じ人物を主人公にしてシリーズ化するというのも東野圭吾の特徴的なところである。ガリレオは物理学者が警察と協力して事件を解決していくというもの。何より毎回手の込んだトリックに圧倒された。『容疑者Xの献身』が最高傑作と言われているが、確かに物理学者と数学者の間で交わされるトリックは予想外の連続。そしてそこに人間ドラマが加わる。よくこんな筋書きを考えられるなという驚きの連続であった。

 私の場合、好きな作家は何人もいる。浅田次郎、池井戸潤、百田尚樹、藤沢周平などであるが、小池真理子と東野圭吾はその筆頭である。小池真理子は文章に惹かれ、東野圭吾はストーリーに惹かれているという違いはある。ただ単に巧妙なトリックに感心させられて終わりというのではなく、真に胸に迫る人間のドラマがなんとも言えない味わいを残す。それは高校野球で3年間ずっと補欠だった選手が、最後の試合の同点で迎えた9回裏一死満塁サヨナラ負けのピンチにライトの守備を命じられ、直後に上がったライトフライからのタッチアップをライナーの返球でホームでアウトにし、味方のピンチを救ったようなドラマである。彼の3年間の努力がその返球だけで報われたというようなものだろう。

 そうした人間のドラマは、いろいろな作品の中に散りばめられていたと思う。『ナミヤ雑貨店の奇蹟』もミステリーというよりもそんな人間ドラマの塊のような物語であったし、スリリングなはずの『天空の蜂』は、福島の原発事故の予言のようで、むしろそちらに驚かされた。ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズも本当の魅力は、そこで描かれる人間ドラマであったようにも思う。自分だったらどうするだろうと考えながら読むことしばしば。帰宅時の電車の中で読むことが多かったため、乗り過ごすことも多々あった。そういう意味で、私にとっては「電車間中で読むのは危険な作家」であった。

 遺作となるガリレオシリーズの最新作が発売されたようである。もうそれで終わりだと思うと、読むのを憚れる気持ちがする。主要な作品はほぼ読んでいるが、まだ読んでいない作品もあるので、それらもいずれ読破したいと思う。また、どの作品ももう一度読みたいと思うので、各シリーズも最初から読み直すのもいいかもしれない。当たり前のように続くと思っていたものが途切れる無念。この喪失感は大きい。それでも2度読み3度読みも含めればまだまだ楽しむことができる。改めてそういう作品を世の中に送り出してくれた事に感謝したいと思うのである・・・


 聖女の救済 (文春文庫) - 東野 圭吾 新参者麒麟の翼 (講談社文庫) - 東野 圭吾 ナミヤ雑貨店の奇蹟 (角川文庫) - 東野 圭吾 真夏の方程式 (文春文庫 ひ 13-10) - 東野 圭吾 人魚の眠る家 (幻冬舎文庫) - 東野 圭吾 沈黙のパレード (文春文庫 ひ 13-13) - 東野 圭吾 希望の糸 (講談社文庫) - 東野 圭吾 白鳥とコウモリ - 東野 圭吾 透明な螺旋 - 東野 圭吾



【本日の読書】
 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛

2026年8月2日日曜日

論語雑感 郷党第十 (その4) 入公門章

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
入公門、鞠躬如也。如不容。立不中門。行不履閾。過位、色勃如也、足躩如也。其言似不足者。攝齊升堂、鞠躬如也。屛氣似不息者。出降一等、逞顏色、怡怡如也。沒階、趨進翼如也。復其位、踧踖如也。
【読み下し】
公門こうもんるに、きくきゅうじょたり。れられざるがごとし。つにもんちゅうせず。くにしきいまず。くらいぐるに、いろ勃如ぼつじょたり、あし躩如かくじょたり。げんらざるものたり。もすそかかげてどうのぼるに、きくきゅうじょたり。おさめていきせざるものたり。でて一等いっとうくだれば、がんしょくはなちて、怡怡いいじょたり。かいくせば、はしすすむこと翼如よくじょたり。くらいかえれば、しゅくせきじょたり。
【訳】
宮廷の門をおはいりになる時には、小腰をかがめ、身をちぢめて、あたかも狭くて通れないところを通りぬけるかのような様子になられる。門の中央に立ちどまったり、敷居を踏んだりは決してなされない。門内の玉座の前を通られる時には、君いまさずとも、顔色をひきしめ、足をまげて進まれる。そして堂にいたるまでは、みだりに物をいわれない。堂に上る時には、両手をもって衣の裾をかかげ、小腰をかがめ、息を殺していられるかのように見える。君前を退いて階段を一段下ると、ほっとしたように顔色をやわらげて、にこやかになられる。階段をおりきって小走りなさる時には両袖を翼のようにお張りになる。そしてご自分の席におもどりになると、うやうやしくひかえておられる。
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 日本人は割と礼儀を重んじるところがあると思う。例えば、神社に行くと、門前で一礼している人をよく見かける。私は神前を大事にしたいと思うが、どうしても人目を気にしてしまうところがある。素直にできる人はすごいなと思うところである。また、ラグビーでは、グラウンドに出入りする都度、一礼する選手も多い。グラウンドは神前ではないが、「神聖なところ」と捉えるところから来ているのだと思う。一流チームほど徹底しているところがあると思う。

 今回は孔子の行動だと思うが、宮廷を神聖なところとする思いが行動に現れているように思う。それは「礼」を重んじる孔子らしいと言えば孔子らしいのだろう。実際に神様がいる場所以外も神聖な場所と捉えて重んじる行動は素晴らしいと思う。特にグラウンドをそう考えるのは日本人以外にもあるのかどうか知りたいところである。考えてみれば、グラウンドはスポーツをする場所で、神様とは無縁である。そこを神聖な場所と考えるメンタリティ。これは如何なるものなのか。

 そう言えば、小学生の時、近所の野球チームに入部したが、そこで教えられたのがグラウンドでの礼であり、バッターボックスに入る時の礼である。また、試合前には審判を前にして相手チームと向かい合い、一礼して試合に入る。それは神聖な場所というよりも、礼儀という意味合いが強いと思う。正々堂々とルールに従って勝負をしましょうという宣言である。スポーツは何をしても勝てばいいというものではない。スポーツマンシップに則って正々堂々と勝負することが重要なのである。そういう意味もあると思う。

 そしてグラウンドを神聖な場所と捉えるメンタリティ。グラウンドは神様とは無縁であるが、グラウンドがあるからラグビーができる。そこで仲間と切磋琢磨しあう。自分の技術を磨き、ライバルと競う。怪我をしないためにもグラウンド整備は重要であり、グラウンドは意思を持たずとも、基本的に大事にするというのがプレーヤーの考えであろう。今は人工芝のグラウンドが増えているが、我々の学生時代は土のグラウンドだったから、グラウンド整備はより重要であった。

 私も三年時にはグラウンド整備担当責任者になり、1年間グラウンド整備に汗を流した。練習後にはレイキをかけて整地し、夏には除草し、特にラインを引くところは除草剤を使って念入りに除草整備をした。公式戦で使用する場合は、グラウンドの整備状況は試合にも影響するし、また恥ずかしくないグラウンドを見せることは、相手チームに対する1つの勝負でもあった。女性の化粧みたいなものかもしれない。そして試合での泣き笑い。練習で流した汗とが染み込んだあのグラウンドは、確かに神聖な場所であると言える。

 自分が仕える宮廷を神聖な場所として敬うことは大事であると思う。そしてそれを人目を憚らず体現できるのも素晴らしい。そういう気持ちでいたら、不正などは起こさないであろう。翻ってみれば、職場も本来はそういう気持ちで出入りすべき場所なのかもしれない。何よりそこで生活の糧を得ているのであり、もちろん労働を提供しているということはあるが、それは当然として、自分の生活を支えている場であると考えればそこは神聖な場所であると言える気もする。

 明日から密かに一礼して出入りする気持ちでいたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 蜘蛛 なぜ神で賢者で女なのか (講談社選書メチエ) - 野村育世 マスカレード・ライフ - 東野 圭吾