2018年1月28日日曜日

記者会見に思うこと


今週一番印象に残ったニュースは、「はれのひ」社長の記者会見であろう。「記者会見をやる」と聞いてまず驚いた。はれのひ事件のニュースは、成人式当日に新成人に着物を渡さず全て放り投げて社長はトンズラしてしまったという程度の認識であった。経営に行き詰まって、お金を持てるだけ持って逃げたのだろうと。近年、旅行代理店の「てるみくらぶ」と同様、悪質な詐欺行為の類だろうと思っていたのである。

 そんなところがノコノコと出てきて記者会見などやるわけもなく、従って「やる」と聞いた時に「おやっ?」と思ったわけである。「詐欺を働くような社長が記者会見をやるのだろうか」と。当然、そんなわけで興味を持ち、ネットで記者会見の様子が配信されていたのをいいことに見てみた次第である。その会見を見ていて感じたのは、当初のイメージとは違うなという感想である。

 確かに事件そのものはけしからんものである。経営者としての能力は最低というよりないと言った方がいいだろう。記者会見で感じたのは、ギリギリまで何とかしようと奮闘し、何ともならずに当日になって逃げてしまったという経営者としてのいい加減さと人間としての弱さである。しかし、そこには当初抱いていたような悪質性はないように(少なくとも私には)思われた。

 人間は弱いもので、どうしても大変な状況の中で顔を背けて逃げてしまうということはあると思う。褒められたものではないが、そういう弱い人間を責めるのも酷であると思う。振り返ってみれば、経営者としてはもっと早い段階で最悪の事態を想定し、お客様への悪影響を回避する手段を取るべきであっただろう。しかし、それは経営を諦めるということであり、家族を養わなければならない立場としては、その生活をどうするかという問題でもあり、簡単には諦められなかったのだろう。

 それよりも記者会見で違和感を感じたのは、「記者の質問レベル」である。当日次々に手が上がって各社が質問していく。NHKだとか日経だとか一流のメディアである。各社の記者の質問で様々なことが明らかになっていき、全体像が見えてきた。記者の役割というものはそういうものであろう。しかし中には疑問に思う質問もあった。「心が痛まなかったのか?」とか「自分の娘だったらどう思うのか?」とか、質問というより感情(怒り)をぶつけているだけではないかという類である。質問をしたのは、「週刊女性」というよくわからないメディアだったから記者のレベルもそれなりだったのかもしれない。また別のメディアの女性記者も似たような質問をしていたから、女性ゆえに感情的になったのかもしれない。

 上記の質問については、「心が痛まなかった」などと回答できるわけではなく、答えはわかりきっている。「自分の娘だったら」という質問には、「怒ると思います」と社長は正直に答えている。その答えに何の意味があるのかと考えれば、愚問であると言わざるを得ない。その他の大手のメディアの記者はそれなりの質問をしていたから、記者のレベルの問題は各社の教育レベルの差かもしれない。あるいはこの手の事件の取材は男の方がいいのかもしれない。

 そう思うものの、上記に対する産経新聞のニュースの見出しは、『新成人裏切りも言い訳だけ 「経営判断ミス」詐欺認めず』というものであった。詳しく説明することは、すなわち自分がその時何を考え行動したかの説明になるわけで、当然正しいと思っていたわけであるから聞く方にしてみれば「言い訳」に聞こえるものである。「詐欺認めず」という表現には、「詐欺であるにも関わらず」というニュアンスが含まれていて、如何なものかという気がする。

 会見には弁護士が同席していて、警察に捜査に関することとか、着物を全て返すという約束とか、微妙な部分では割って入って補足説明をしていた。このあたりは弁護士ならではの役割だろうと思う。誰に雇われたどういう立場の弁護士さんなのか、ちょっと興味を持ったところである。質問を聞いていて瞬時に判断が求められるわけで、腕の見せ所かもしれないが、難しい仕事だと思う。

 それよりも「はれのひ」の社長が、袋叩き覚悟でこういう「針の筵」にきちんと出てきたという勇気は唯一褒められるところかもしれない。当然だろうと思う人もいるかもしれないが、これはかなり勇気のいることであるし、実際にその立場に追い込まれた時に一体どれだけの人ができるだろうかと思う。自分もかつて仕事で大失敗して、会社に行くのが辛い時があった。何とか行き通したが、この社長の場合、自業自得とはいえ記者会見は勇気のいることであったことは、そしてその勇気を遅ればせながら出したことは確かである。

 この社長ももう少し早く、少なくとも1ヶ月前に経営を断念して手を打っていたら、被害者の人の被害はお金だけで済んでいたかもしれない。その決断ができなかったであるがゆえの「針の筵」だから仕方がない。何はともあれ、個人的には「はれのひ」に対する悪意的イメージは払拭された会見であった。それとともにやっぱりマスコミのレベルに差があることも・・・
 そんなことを感じさせてくれた記者会見である・・・





【今週の読書】 
  
 

2018年1月25日木曜日

ギャンブル

新聞でチラリとギャンブル依存症の記事を見かけた。最近は何でもそれっぽい病名をつけたがる傾向にあるが、「依存症」が病気なのかは個人的に疑問に思うところである。それはともかく、ギャンブルで身を崩す人が多いのは事実だろうし、その気持ちもわからなくはない。正確に言えば、わからなくはないのは「やめられない事情」であり、「やめられない気持ち」ではない。

私も一時期もっと収入を増やしたいと株式投資を始めたことがある。それなりに勉強して、お金がなかったから信用取引を利用したが、見事に惨敗。カードローンで資金を賄い、その返済資金を作るためにまた勝負し、という繰り返しで損失を積み上げた。「返さないといけないお金がある」という事情ゆえ、「やめたくてもやめられなかった」のである。

しかし、そういう事情があればまだしも、純粋に「ギャンブルをやめられない気持ち」はよくわからない。それはそもそもギャンブルに興味がないのかもしれない。およそこれまでの人生で、競馬競輪等公営ギャンブルから、パチンコなどの民営ギャンブル、さらには宝くじや学生時代にみんながやっていた麻雀に至るまで、およそ賭け事には興味がない。

それは一つには「不健全」というのがある。競輪競馬は、最近は女性客を意識しているようだが、昔はガラの悪いおじさんたちばかりだったし、パチンコ屋の雰囲気も似たり寄ったり、タバコの煙にまみれた徹夜麻雀は言うに及ばず、だ。さらに勝率という点もある。パチンコは裏で出玉率がしっかり計算されているし、「買わないと当たらない」という宝くじの当たる確率は、サイコロを9回降って連続して同じ目が出る確率と一緒である

そんな私だが、ラスベガスだけは面白いと思った。何より健全な雰囲気だし、ハマったポーカーはギャンブルというより勝負だったし。最近は日本でカジノをという議論があるが、私は賛成派である。「犯罪の温床になる」とか「ギャンブル依存症が増える」とかいう反対論があるが、「犯罪の温床」なら競輪競馬、パチンコなどみんなに言えることだし、「依存症」も然り。健全な雰囲気を作り上げれば、ずっとマシだと思わざるを得ない。

銀行員時代にパチンコ店運営会社を担当したことがある。パチンコ店は新台の購入資金負担が大変で、ある時新台を購入せず旧台で頑張ればと聞いたことがある。その時は強い反対に遭い、お客さんは新しい機械を楽しみにくるのだと説明を受けた。私はパチンコに来る人たちを見ていて、みんな金目当てに思えて仕方がなかったから、「出ない新台より出る旧台」の理屈を説明したのだが、「素人考え」と一蹴されてしまった。今でも何となく疑問に思う。

それもこれも自分がギャンブルをやらない(からわからない)ためかもしれないし、多分そうなのだろう。よくよく考えれば、株もギャンブルのような気もする。「あれこれ勉強して株価の上下を予測し、それに賭ける」というところを見れば、ギャンブル的だとも言える。当たればその報酬としてお金がもらえる。その成果が金額の多寡と考えれば、ギャンブルにハマる人の気持ちも何となく理解できる。株なら高級で競馬なら低級などということはない。

仮に株がギャンブルだとしても、だからと言ってやっぱり競輪・競馬・パチンコの類はこれからもやらないであろう。何より予測の仕方がわからないし、わかりたい、勉強して覚えたいという気になれない。同じやるなら株だろう。今は、マンション管理士の勉強もあるから小休止しているが、いずれ再開したいと考えている。趣味と実益を兼ねたものとしては、やっぱり無視できないものがある。これに関しては、羹に懲りずにまたやりたいと考えている。

これは「依存症ではない」と、一応思うのである・・・




【今週の読書】