2017年4月30日日曜日

論語雑感(為政第二その1)

子曰。爲政以徳。譬如北辰居其所。而衆星共之。
()(いわ)く、(まつりごと)()すに(とく)(もっ)てす。(たと)えば北辰(ほくしん)()(ところ)()て、衆星(しゅうせい)(これ)(むか)うが(ごと)し。
【訳】(Web漢文大系)
先師がいわれた。徳によって政治を行なえば、民は自然に帰服する。それはあたかも北極星がその不動の座にいて、もろもろの星がそれを中心に一糸みだれず運行するようなものである
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 「徳によって政治を行う」というのは、よく考えてみるとなかなか理解が難しい。ここでいう「徳」とは何なのか。何となく「人として備えている優れたもの」というイメージはあるが、はっきりとした説明は難しい。逆に政治家にはどんな人物像が理想的かと考えてみる。政治家が己のことだけを考えて政治を行ったとしたら、民衆からそっぽを向かれるだろう。そうではなくて、「自分たちのための政治をしてくれている」と感じたら、大いなる支持を得られるに違いない。

そんなイメージからすると、政治家が備えるべきものとは「利他の心」とでもいうべきものかと思う。「人のために何かをする姿」というものは、やはり共通して人の心を動かすものである。政治家という職業(「職業」という言葉が適切かはわからないが)は、「人(国民)のために何ができるのか」が問われるものである。まさに「利他の心」がなくてはならない職業であろう。そういうスタンスが前面に出ている政治家であれば、まさに北極星のごとく人がその周りを回る様になると思う。

個人的には、それにプラスして「信念」を推したいところである。「人のため」と言っても、「良薬口に苦し」のたとえもある。目先不利益があったとしても、やり抜いた後にもっと大きな幸福があることもある。多少の批判に動ぜずに信念を持って、国民のためになると信じることをやり抜く必要性だってあると思う。現在は特に浅薄なマスコミがちょっとしたことですぐ批判をし、それを恐れた政治家が目先の人気取りに走っている様も目に付く。誠に嘆かわしい限りである。

それに「筋を通す」ということも大切だと思う。「言っていることとやっていることが違う」ということは、政治家でなくても人の上に立つ者ならやってはいけないだろう。最近、女性問題で自民党を離党した中川俊直衆議院議員は、過去に世襲を否定していたが、その3年後に父の選挙区から堂々と立候補して当選している。さらに離党後休業宣言を出したが、休業するなら一旦議員をやめるべきだろう。国民の代表として活動できる人にその地位を譲れば、その間代わりの人が国民のために働けるというものである。

また、これも最近民主党を離党した長島昭久衆議院議員は、小選挙区で落選し比例代表で復活当選した議員であり、離党するなら議員も辞職しないと筋が通らない。国民は「民主党」に投票したのであって、「長島昭久」には投票していない。個人名では落選しているのだから、党を辞めるのであれば議員も辞職するのが「筋」だろう。離党の理由は大変立派だと思うが、だから「筋」を曲げてもいいというものではない。もっとも政治家のこんなことを一々挙げていればキリがないのは、実に嘆かわしいことである。

考えてみれば、「徳」が必要なのは、政治家だけにとどまらないと思う。かの経営の神様、松下幸之助も「人間として一番尊いものは徳である」との言葉を残している。先日、その神様についての本を読んだが、そこで紹介されているエピソードを数々読むと、なるほどと思わされる。松下電器に距離を置いていた取引先の社長さんが、幸之助の人柄に触れ、次の日から店頭の商品をすべて松下電器のものにしたなどという話はその最たるものであろう。こういう人こそ、政治家たるべきものだったのではないかと思うのである。

孔子もそんなことをよく理解していて、だから「徳が大事」と語ったのだと思うが、その言葉は2,500年経った現代でも極めて真実であり続けていて、それどころか、政治にとどまらずあらゆるリーダーが備えるべき資質として当てはまるものかもしれない。企業でも自社の利益ばかり追求しているところは人の支持など得られないだろう。社長はもちろんだが、企業としての「徳」も必要なのではないかと思う。

そうした「徳」を備えた企業であれば、働いていても楽しいであろう。それは決して、夢物語などではなく、実現できるものだと思う。我が社も小なりと言えど、そういう企業を目指して、明日からまた頑張ろうではないかと思ってみた次第なのである・・・




【今週の読書】
 住友銀行秘史 - 國重惇史 ヤバい心理学 - 神岡真司






2017年4月27日木曜日

スーパーフライデー(その2)

ソフトバンクが各企業と提携しているスーパーフライデーのサービスであるが、どこも企業である以上、ボランティアでサービスを提供することはない。タダで提供するにはそれなりのリターンがあるということである。もともと銀行員であった性であろうか、どうもそのあたりの「裏」に興味を持ってしまうのである。

 タダで提供すると言っても、実際に提供する企業側には費用が発生する。商品そのものの原価であり、販売する人の人件費といったものである。たとえばサーティーワンであれば、我が家のご近所の駅前店舗では、木曜日は店員さん1人であったが、金曜日は誘導担当含めて3人で対応していた。これを全店舗(1,179店-201612月末-)でやるとなると、結構な負担である。

 その費用負担は提供企業とソフトバンクとで折半しているのだろう。提供企業のメリットとしては、「顧客獲得」と「ついで買い」による売上増であろうか。真夏にやらないのは大量に来られても困るということがあるのだろう。寒い季節であれば「タダでも食べたくない」と言う人はいるだろうから、ある程度抑えられるという思惑もあるに違いない。「ついで買い」については、(まだスマホを持てない)子供のいる家庭でお母さんが子供の分を買うというパターンがあるかもしれない。しかしながら、メリットとしては普段来ない人に来てもらうというところに主眼があると思う。

 一方、ソフトバンクの狙いとしてはやはりユーザー獲得だろう。実際、スーパーフライデーのサービスの「お得感」は結構あると思う。それだけでわざわざ乗り換える人はいないかもしれないが、これからスマホを買おうと思っている人とか、ちょうど乗り換えを検討している人だったら興味を惹かれるかもしれない。こちらはユーザー獲得のための広告料と考えれば、テレビの「犬のお父さん」のCMなどと同じ位置づけで許容できるのだろう。

 個人的にありがたかったのは、やはり吉野家の牛丼だ。サラリーマンにとって、お昼一食浮くのは大きい。毎週と言っても吉野家なら許せるので問題はない。これが同じ牛丼でも松屋ならタダでもいらないから、吉野家に目を付けたのは慧眼と言えるかもしれない。ミスドについても、多少カロリーは気になったが、ドーナッツは種類もあるから毎週楽しめたところである。

 逆にサーティーワンは、前述の見栄もあって利用はし難かった。ファミチキはまぁ「あってもいい」と言う程度だ。このサービスも今月までであるが、今後も続くのだろうか。それは先の広告効果次第なのかもしれないが、続けて欲しいと思うところである。サーティーワンが二度やったのだから、もう一度となれば吉野家とミスドをお願いしたいところである。それ以外ではどこだろうか。全国展開していてとなると限られてくるが、コージーコーナーなんかありがたいと思う。

 ソフトバンクユーザーとなって15年以上。いまやガラケーとiPhoneと二台も使用し、家族も全員ソフトバンクユーザーである。孫さんのファンでもあるし、これからも他へ乗り換えるつもりなどさらさらない。そんなユーザーからすると、できることならこのサービスは続けてほしいと思う。
「次はどこだろうか」
それを楽しみにしたいと思うのである・・・
 


【本日の読書】
 ヤバい心理学 - 神岡真司 住友銀行秘史 - 國重惇史




2017年4月23日日曜日

スーパーフライデー(その1)

我が家では携帯はみんなソフトバンクである。このところ、キャンペーンでやっている「スーパーフライデー」のサービスを妻も子供も楽しんでいる。今月はサーティワンアイスクリームの「レギュラーシングルコーン」プレゼントだ。私は、どうもサーティワンアイスクリームを1つもらうために並ぶのに気が引けてもらっていないが、家族には好評なのでまぁいいサービスなのではないかと思う。そんなサービスを見ていて、あれこれとくだらないことを考えた。

この「スーパーフライデー」は、昨年後半から始まったサービスだ。ソフトバンクが利用者向けに、吉野家、サーティワン、ミスタードーナッツ、そして今年に入りファミマ、サーティワンと続いている。タダでもらえるというのはありがたいことで、私は吉野家とミスタードーナッツとファミマは利用させてもらった。なぜ、すべて利用しないのかと言うと、それは私が関西人の妻曰く「ええかっこしい」だからである。

どのサービスも金曜日には長蛇の列であった(ファミマは違った)が、私が利用したのはいずれも「ついで買い」ができるものだ。ドーナッツは2個サービスだったが、4つ買った。ファミマでは、サービスのファミチキは昼の弁当を買う時にもらった。どうも「タダのものだけもらう」ということができなかったのである。吉野家は、牛丼一杯無料サービスであったが、これは「ついで買い」がしにくく(一品頼んでもよかったのだが、精算がめんどくさそうだったからやめたのである)、普段通り頼んで終わった結果である。

サーティワンは、家族はそれぞれタダでもらっているし、自分の分だけタダでもらうのは気がひけるし、かといってこの季節に2つも食べるかと思ってやめてしまったのである。「ええかっこしい」と笑われようと、タダのモノだけもらって帰るというのは、大人としていかがなものかという気がしてできないのである。そうして家族の分まで余計にドーナッツを買って帰ってきた私を見て妻は呆れたが、私からすると「半額」でも十分ありがたいと思うことにしている。

妻には笑われるが、私のこういう「ええかっこしい」、言い換えれば「見栄」はおかしいのであろうかと思うが、人間誰しも「見栄」はあるだろうし、もう心底染み付いてしまっているから変えられる者ではない。例えば女性とランチに行って、デートなら相手の分も払うかもしれないが、そうでないなら払わなくても不自然ではない。だが、それでも何となく居心地の悪さを感じてしまう性分なのである。部下にたまに奢るくらいなら不自然ではないのだろうが、いつもだとおかしいかもしれないし、そのあたりは個人の感覚なのだろう。

雇用機会均等法の時代を生きる今の若者たちは、男女の「割り勘」にそれほど抵抗感がないのかもしれない。そういう感覚からすると、「タダなんだからそれだけもらって何がおかしいの」と思うかもしれない。「タダだけだと悪い」という感覚が何となくあって、ついで買いでせめてもの「罪滅ぼし」をする私は、「ついで買い戦略」に絶対引っかからない妻からすると物笑いのタネのようである。妻は日頃からスーパーの「ついで買い戦略」には断固として対抗しているので、場慣れしているところがあるのかもしれない。

そうした個人の感覚を笑いたければ笑えと妻には心の中で言う。こればっかりは個人の居心地の良い感覚なので仕方がない。笑われようと変えるつもりはない。あえて言うなら、タダはありがたいが、「ついで買い」しやすいものだと尚ありがたいというところだろうか。自分の感覚は変えようがないので、今後もまだ続けるのなら、そういうサービスをお願いしたいとソフトバンクには思うのである・・・




【今週の読書】
 運命をひらく 生き方上手<松下幸之助>の教え - 本田 健 侍 (新潮文庫) - 周作, 遠藤





 

2017年4月20日木曜日

美田残さず千尋の谷へ旅させる

最近、立て続けに「えっ!」と思うことがあった。両方とも共通しているのが「子供に甘い」ということ。1人は20代の息子さんのために中古マンションを買ってあげたお母さんで、もう1人はお子さんために留学費用をポンと出してあげた方である。ともにお金を持っているからできることで、私などとても真似できない。だが、「えっ!」と思ったのは「お金を出せた」ことではなく、「出した」ことである。

「お金があるんだからいいじゃないか」と言われればその通り。私もよその家のことに口を出すつもりはない。だが、私だったら出さないと思う。それはたとえ「出せるお金を十分に持っていたとしても」である。なぜなら、それが「子供のためになる」と思うからである。昔から言うではないか。
「かわいい子には旅をさせよ」
「子孫に美田を残さず」
「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」
どれも表現は違うが、「子供は甘やかすな」と言っていることは同じである。

 子供がかわいいのは誰でも当たり前。何でもしてあげたいと思うのは当然である。だが、それが本当に「本人のためになるか」は考えないといけない。親はいつまでも子供を庇護していられるわけではない。いずれ子供は独立し、親は老いて死んでゆく。子供は1人で世の中の試練と向き合わなければいけない。その時までに、それだけの力をつけさせてあげないと、困るのはかわいいわが子本人である。

 例えば私だったら子供にマンションを買い与えるのではなく、自ら銀行に行かせてローンを組ませる。1人で交渉させるのも勉強だ。そして月々の収入から毎月きちんと返済させることを学ばせる。「毎月の収入の中で生活する」ということをさせるのだ。20代なら一人前だし、いずれ結婚するとしてもその前にそういう生活習慣を身につけさせる必要がある。文句を言われたとしても、お金の苦労はさせるに越したことはない。買い与えていたらその苦労を味わえない。

 若い頃には特にお金の苦労はすべきだと思う。それでこそしっかりとした金融リテラシーの基礎が身につくというものである。お金があるなら取っておいて、40代、50代になってから渡したって遅くはない。その時には十分それを活かせるようになっているだろう。それだけのお金があるなら、相続税がどうのこうのなどとせこい事を考えるのではなく、最後に渡せばいいと思う。税金の心配よりも、子供の成長こそ重視すべきである。

 留学費用だって自分で何とかするよう苦労させればいいと思う。もし出すとしても、やるだけやってどうしてもダメで、もう諦めるというところになってからでも遅くはない。そうして苦労して掴んだチャンスなら、困難にもめげずにきちんと活かそうとするだろう。まさに「艱難汝を玉にする」「若い時の苦労は買ってでもしろ」である。これだけ昔から言われていることが、わからないのは不思議である。

 よく「金持ちの家は三代で潰れる」と言われるが、これも同じ理屈だと思う。成功した初代の苦労を見ていた二代目は多少わかっているが、初めからボンボンで生まれた三代目は甘やかされて苦労知らずに育つ。その結果、身代を潰す失敗をするのである。まぁ、それで世の中は回っているのかもしれないし、傍からとやかく言うことではない。

 私も子供の頃は金持ちの家に生まれたかったとよく思ったものである。たぶん、我が家の子供たちも今そう思っているかもしれない。だが、「災いもって福となす」で、それはそれで「バカ息子」にならずに良かったのだと思うことに無理やりしたいと思う。我が家の子たちのためにも、「あえて」美田を残さないことにしようと思うのである・・・




【本日の読書】
 ブロックチェーン・レボリューション ――ビットコインを支える技術はどのようにビジネスと経済、そして世界を変えるのか - ドン・タプスコット, アレックス・タプスコット, 高橋 璃子 侍 (新潮文庫) - 周作, 遠藤






2017年4月16日日曜日

頼れる資格

 昨年、宅地建物取引士の資格を取り、今年はマンション管理士の資格取得に向けて勉強をしている。仕事上必要なので勉強しているのだが、私は昔からこの手の「資格」というのが好きではない。古くは中学生の頃だったか、いつも張り合っていた友人が将棋の初段を取ったと自慢してきたことがあって、それは返り討ちにしたのであるが、私自身、当時からそんな「段」なんて取りたいとも思わなかった。「権威」に媚びたくないというアマノジャッキーな性格はこの頃既に完成していたのかもしれない。

 その後は「英検」なんてのも受験を勧められたが、「会話」に「級って何だ」という素朴な疑問からバカらしくて受ける気などなかった。まぁ職場で求められたTOEICは受験したが、基本的に自分の「箔づけ」のために資格を取ろうという考え方は、私には全くない。それで困ったことと言えば、転職の際に履歴書が寂しい気がしただけである。

 そもそも資格などというものは、国家が安全のために設けているもので、それはそれなりに十分意味はあると思うが、資格があればその分野の能力もあるとは限らない。とりあえず「その分野の勉強をした」という実績にはなるので、一定の歯止めにはなるだろうがそれだけだと考えている。さらに昨年宅建の試験を受けて感じたのだが、宅建に限って言えば「落とすための試験」とでも言える内容で、「ひっかけ問題」の類が多く、必要な知識の習得度を測るという本来の目的からは逸脱しているように思える。誠に疑問の多い試験である。

 それはさておき、国家資格以外にも実はいろいろと資格があることを最近知った。LECの講座を受講しているせいで、メールによるセールスレターが来るのであるが、そこに「住宅ローン診断士」なるものの講座案内があったのである。その講座説明は下記のとおりである。

 『住宅ローンを取り扱う金融機関は全国で500を超え、それぞれが違うローンを提供しております。また、金利/変動・固定などの金利タイプ/保証料や事務手数料などの諸費用/団体信用生命保険など、一つの金融機関でも様々な選択肢やローンがあります。それ以外に、審査基準も違うなど、適正なローンなのか判断するのは困難な状態であり、コンサルティングのニーズが高まっております。住宅ローン診断士認定講習は、このニーズに対応する為の講座であり、指導能力を育成する為の資格制度です。』(LECホームページより)

 正直言って元銀行マンの立場からすると、「アドバイスするほどのことか」と思う。百歩譲ったとしても、それを「診断士」などと名乗るのかとアホくさく思う。そう思って気がつくと、怪しげな資格が目につく。不動産関係だけでも、「住宅販売士」「サブリース建物取扱主任者」「シックハウス診断士」「相続診断士」「住宅建築コーディネーター」「敷金診断士」「競売不動産取扱主任者」等々である。正直言ってどれだけニーズがあるのだろうか、資格を取って何の意味があるのだろうかと呆れてしまう。

 例えば「敷金診断士」であるが、これは「敷金・保証金を巡るトラブルの解決を図る専門家」だとするが、どんな風にトラブルの解決を図るのだろうかと思う。原状回復費をめぐるトラブルを念頭に置いているのだろうが、「診断士」なるものがノコノコ出て行って解決するとは思えない。仮に賃借人に頼まれた「診断士」が大家のところに行って、「取り過ぎ」と言ったところで、「適正だ」と反論されるのがオチで、納得できないなら最後は裁判で決着を測るしかない。その時には当然「診断士」の出番などない。

 もともと日本人は「権威に弱い」ところがある。自分の正当性を主張するのに、権威を利用するのである。「大義名分」という言葉が表しているが、武士が実力で天下を統一したにもかかわらず、天皇に「征夷大将軍」に任命してもらう形をとったことにも現れている。上は「お上」から下は子供の「先生に言いつける」まで、「権威意識」は根強い。自分の意見も「専門家」のお墨付きがあれば、胸を張って主張できる。そういうものに頼ることが染みついていると思う。

 受験専門校がこうした資格を得るための講座をセールスするのは当然である。その背景には「資格があれば」と思う人たちがいるのだと思う。それが悪いとは思わないが、資格なんてなくても住宅ローンなんて自分で選べるものである。いろいろ種類はあるが、自分の頭で違いを見分けることなんて誰だってできるだろう。いちいち「診断士」なるものに頼る必要などない。それともそこまで知力が落ちているということなのだろうか。

 このままいくと、「お昼ご飯診断士(サラリーマンに適切な今日のお昼ごはんをコンサルティングします)」「読書診断士(キャリアアップに有効な図書をコンサルティングします)」「自家用車アドバイザー(ご家族の状況に合わせた車をコンサルティングします)」などという専門家が溢れかえるような気がする。それでいいのか日本人。

 将棋で初段を取ったと自慢してきた友人を返り討ちにしてやった時から、私は「無冠の帝王」を気取っている。ないと仕事ができないという国家資格なら仕方がないが、それ以外のつまらない資格はこれからも見向きもしないだろう。そうした資格に頼るのは、自信のなさの表れとも言えるだろう。そんなことをつらつらと考えさせられたLECのセールスレターなのである・・・

    

【今週の読書】
 ブロックチェーン・レボリューション ――ビットコインを支える技術はどのようにビジネスと経済、そして世界を変えるのか - ドン・タプスコット, アレックス・タプスコット, 高橋 璃子 侍 (新潮文庫) - 周作, 遠藤






2017年4月12日水曜日

GDPと生産性の話について思う

先日、『デービッド・アトキンソン新・所得倍増論 潜在能力を活かせない「日本病」の正体と処方箋』という本を読んだ。この本で衝撃的だったのは、「日本が経済大国と言われるのは人口が多いから」という事実だ。日本は中国に抜かれたとはいえ、現在でもGDP世界第3位の経済大国である。しかし、「GDP=人口×1人当たり生産性」であり、この「1人当たり生産性」では日本は世界ランキングでは27位になるという。それが3位に躍り出るのは、「人口が多い」からに他ならない。

 言われてみれば実に当たり前である。中国に抜かれた時も、「中国は人口が多いから、一人当たりでは日本は中国より上」という論調があったが、何のことはない日本の3位すらそれと同じだったわけである。この本の主張は、「日本人はもっと生産性を高めなければならない」というもので、それはちきりんさんも同じようなことを主張していて(『自分の時間を取り戻そう-ゆとりも成功も手に入れられるたった1つの考え方-』)、それはそれでその通りなのだろうと思う。

ちなみに、1人当たりGDPのランキングは下記の通りである。
順位
国名
順位
国名
順位
国名
1
カタール
10
アメリカ
19
アイスランド
2
ルクセンブルク
11
アイルランド
20
デンマーク
3
シンガポール
12
サウジアラビア
21
カナダ
4
ブルネイ
13
バーレーン
22
オマーン
5
クウェート
14
オランダ
23
ベルギー
6
ノルウェー
15
スウェーデン
24
フランス
7
アラブ首長国連邦
16
オーストラリア
25
イギリス
8
サンマリノ
17
オーストリア
26
フィンランド
9
スイス
18
ドイツ
27
日本
香港
台湾
28
韓国

 さて、日本以上にGDPの多い国はどこなのだろうと興味を持って眺めてみると、いささか違和感を感じる。パッと目につくのがカタール、ブルネイ、クウェート、アラブ首長国連邦などの「資源国」。確かに国として収入は多いのだろうが、湧き出ている石油や天然ガスを売っているだけで日本より生産性が高いと言われてもピンとこない。観光収入に頼るサンマリノもどうかと思う。気持ち的には8つくらいは順位を上げたいところである。ただ、それ以外のところは、素直に認めないといけないかもしれない。

 ところで「生産性」とは何ぞやと考えてみると、それはすなわち生み出している価値であり、例えば個人で言えば給与などの収入、企業で言えば売上高といったところのようである。となると、生産性を高めるには給与を増やせば良いということになる。だが、給与が高ければいいかと言うと、一方で支出(生活コスト)ということも考えねばなるまい。事実、各国の生活費を見れば(各国の”生活費”を一目瞭然にした世界地図。【果たして日本は!?】)、スイス、ノルウェー、アイスランド、デンマークなどヨーロッパの国が高位にランクされ、日本はトップ15に入っていない。

 また、『世界給与ランキング』なるものもあって、ちょっとデータは古いものの、これによると東京の平均給与は世界8位にランクされている。ここからすると日本の生産性の低さは、「地方が足を引っ張っている」と言えなくもない。しかし、そもそもであるが、為替の影響もあるし各国の事情もそれぞれ違うだろうから、1つの指標をもって単純に比較することには無理があるように思う。だから問題がないと言うつもりはないが、結論は難しい。

 生産性を高めなければならないという意見を否定するつもりはない。世界ランキングがどうとかではなく、やはり少しでも給料を上げられる様努力するのがサラリーマンの本分であると思うし、そのためにも会社の利益向上に努めなければならない。かつて務めていた大企業であれば私個人の頑張りなどたかが知れていたが、今努めている中小企業では己の働きが即会社の業績に直結する。やりがいと共に緊張感もある。今月からまた新しい期に入り、前期以上に増収増益といきたいところである。

 あまり難しいことを素人があれこれ考えてみても始まらない。己自身は地に足をつけて、目の前の仕事に取り組むほかない。そう考えて、改めて頑張りたいと思うのである・・・




 【本日の読書】
 ブロックチェーン・レボリューション ――ビットコインを支える技術はどのようにビジネスと経済、そして世界を変えるのか - ドン・タプスコット, アレックス・タプスコット, 高橋 璃子 恋のゴンドラ (実業之日本社文庫) - 東野 圭吾




2017年4月9日日曜日

論語雑感(学而第一の16)

子曰。不患人之不己知。患不知人也。
()(いわ)く、(ひと)(おのれ)()らざるを(うれ)えず、(ひと)()らざるを(うれ)うるなり。
【訳】
先師がいわれた。人が自分を知ってくれないということは少しも心配なことではない。自分が人を知らないということが心配なのだ。
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論語の言葉の中でも、なかなか深いと思わされるものとそうでないものとがある。もちろん、その感覚は人それぞれであるが、個人的に今回のこの言葉は「深い」と思わされる部類に入る。人は誰でも自分の人生では自分が主人公であり、自分こそが正義である。したがってそんな自分が批判されるのは快くないし、周りが自分を「正しく」評価してくれているかは大いに気になるところである。

自分のやっていることは常に正しいと信じているし、それはその通り周りにも認めて欲しいと思うのが人情というもの。だから批判されれば「不当」だと思うし、会社などで思った通り自分が評価されないと、「本当の自分を理解してくれていない」とか「たまたま運が悪かった」とかそういうものに求めたりする。だが、野村監督が言うように「評価は人が下したものが正しい」というのが真実であると思う。

自分自身そうした感情を過去には抱いていたし、同じような考えの人は多いと思うが、それこそがここに言う「患人之不己知」なのだろう。「自分がなぜ正当に評価されないのだ」という思いは、まさに「人之不己知」そのものであると思う。そして孔子はそれは憂いるに値しないと言う。確かに、「評価は人が下したものが正しい」と考えられるならば、その(自分にとって認めたくない)事実をどう次の行動に移すかとなるだろうし、その場合、確かに憂えている暇はないわけである。

そして後半の「患不知人也」であるが、人は得てして他人をそれほど知ろう=理解しようとは思わないものではないだろうかと思う。せいぜいが片思いの恋を成就させたいと思う時ぐらいではないかと思う。もちろん、恋についても相手を知ることは大事ではあるが、ビジネスにおいても実はとても重要なことである。その相手とは、取引先かもしれないし、あるいは一般消費者かもしれないが、相手のことがわかればビジネスも大いにやりやすくなることは間違いないであろう。なので、この言葉は消費者マインドをつかもうと日夜苦労しているビジネスマンなら大いに頷くところかもしれない。

一方で、例えば友人や会社の同僚となれば、それほど熱心に知ろうという気持ちにはならないかもしれない。新人として入社したばかりの人なら、周りの人を早く知って早く職場に慣れたいと思うかもしれないし、新米上司なら部下のことを早く掌握したいと思うかもしれない。残念ながら何でもない自分は、正直それほど深く知ろうという気持ちになれない。

そして正直に言えば、その人の粗が目についてしまうとどうしても批判的な視点が濃くなってしまう。どんな人にもいいところはあるわけで、「短所を見るより長所を見よ」と頭では理解できているものの、どうしても批判的視点から逃れられない。孔子の言葉を読んで真っ先に連想したのもこのことである。

孔子の言う「人を知る」は、「欠点を知る」と言う意味ではないと思う。悪い部分、できていない部分は自分でカバーすればいいではないかと頭では思う。あるいは不快な気分にさせることなく、改善するように働きかけるとか。自分の見えていない範囲で、その人も良き夫であったり父であったりするだろうし、そういう部分を考えずして批判だけするのは簡単だが、それでは自分も天から見られたら小さく見えてしまう気がする。

そう考えてみると、「人を知る」と言うことは深い意味があると思えてならない。言葉で言うほど簡単ではない深みを感じるのである。孔子が2,500年前にどこまで考え、意図していたのかはわからないが、自分なりに解釈してうまく役立てたいと思う。
「早速明日から」と思うのである・・・


      
 

【今週の読書】
  セブン-イレブン1号店 繁盛する商い (PHP新書) - 山本 憲司  伝えることから始めよう - 高田 明





2017年4月5日水曜日

親と入学式

桜の花も満開のこの時期、職場の近くの大学では入学式が行われたようである。駅から降りてきた人々が係員の誘導に従ってぞろぞろと歩いていて、係員の持っている案内板でそれとわかったのである。その長い長い行列を見ていて、ふと気がついた。その大半が親子なのである。ざっと3/4の割合といったところであろうか。

 母と子、あるいは両親と子、稀に父と子。そんな親子連れを見ていて、今は親子で入学式も当たり前なのだろうと思った。我が身を振り返ってみれば、自分は結構自立心旺盛だったから大学は入学式も卒業式も1人で行った。今さら親と一緒に行くものでもあるまいと思っていたのである。もちろん、受験も合格発表も1人で行ったのは言うまでもない。

 そんな考えだったから、受験の時に母親と一緒に来ている奴を見て、「なんて情けない奴だ」と思ったものである。ついてくる方もついてくる方だが、自分の人生をかけた受験にママとくる方もくる方である。その後、会社に病欠を親が伝えるなどという嘆かわしい例も耳にし、女の子ならともかく、男はそんなので大丈夫かと思ったものである。親子の行列もそんな風潮に拍車がかかった象徴なのだろうかと思ってしまった。

 もっとも、私と同年代のある人によれば、大学の卒業式には親が来たという。我が子の最後の卒業式をこの目で見てみたいということだったらしいが、まぁそういう理由ならいいのかもしれないと言われてみて思う。親にしてみれば大学の卒業式は(それで社会へ出るのであれば)、「子育ての卒業式」でもあるわけだし、最後の記念にという思いもあるかもしれない。それはそれで納得できる理由である。

そう言えば、私の父も私の合格発表を私に隠れて見に行ったという(もちろん合格の報告後である)。それは何年も経ってから聞いた話で、私に言えば反対されるから黙って行ったらしい。中卒で社会に出た父からすれば、一生懸命働いて育てた息子が自分の行けなかった(そして行きたかった)大学に合格し、それは感慨深い出来事だったのかもしれない。今から思えば悪いことをしたなと思う。もう少し寛容に構えて、入学式なり卒業式なりに「連れて行って」あげれば良かったと思う。

そう考えると、ぞろぞろと長い行列をなして歩いていた親子連れも、そんな優しい息子・娘の集団だったのかもしれない。「親と一緒」というだけで批判するのは良くないかもしれない。自分の受験時の、あのママと来ていた学ランの受験生のイメージがどうも強すぎるのかもしれない。ただ、社会人にもなって親が病欠連絡をするのもいるから、中には子離れ親離れできなくて、一緒に来ていた親子もきっといただろうと思う。

親と一緒でない子は、友達同士であったり、あるいは一人寂しく歩いていたりしていたが、一人で歩いていたのはたぶん誰も同じ大学に行く知り合いがいなかったのだろう。心なしか俯き加減のそんな彼らをポツリポツリと見かけると、かえってエールを送りたい気持ちになった。親に頼るのは仕方のない学費と生活費だけにして、精神的にはもう独立したい時期である。

我が家の子供たちも、いずれ大学へと進学するであろう。その時はどうするだろうか。東大とか早稲田とか慶応とか、一流大学だったら物見遊山で行くかもしれない。でもそれは娘の場合で、息子の場合は行かないかもしれない。その時になってみなければわからないが、行くとしたら、それは子供の為というより自分の為であろう。まぁその前に、大学に行かない(行けない)ということのない様、しっかり勉強してほしいと思うのである・・・


 

【本日の読書】
 ポスト・アベノミクス時代の新しいお金の増やし方 - 加谷珪一 伝えることから始めよう - 高田 明