2012年10月30日火曜日

仕事について

旧ソ連の共和国の一つウズベキスタン。その首都タシケントに国立ナボイ劇場がある。終戦直後のソ連によるシベリア抑留で捕虜となった日本人が強制労働で建設させられた劇場である。タシケントには戦後2度の大地震があり、多くの建物が倒壊したが、ナボイ劇場は無傷で残る。強制労働に従事させられながらも、見事な仕事をした日本人に対し、現地の人たちは尊敬の念を抱いてくれているらしい。そんな事もあってか、ウズベキスタンはかなり親日的な国なのだと言う・・・
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 私が運営のお手伝いをさせていただいている高校の財団では、高校生に対して奨学金を支給している。その応募にあたっては、「将来私のやりたい仕事」と題する作文(800字)を提出してもらっている。以前は「将来の夢」としていたそうであるが、もう高校生となれば将来の職業を具体的に意識してもいいだろうと考えて変えたのだそうである。

 そう言えば私も高校生の時は、将来の職業として弁護士を考えていた。今から思えば、世の中にどんな仕事があるのかもよく知らず、単に映画「ジャスティス」を観て感動し、弁護士になろうと安易に決めたのだ。あの頃もう少しいろいろな選択肢が見えていたら、私の人生もだいぶ違ったものになっていたと思う。

 結局弁護士にはならなかったが、それはけっして司法試験という難関試験に挫折したわけではない。一言で言えば、法律の仕組みが私の性分に合わなかったのである。同じ結論なのに解釈の仕方の違いでそこに至る過程が違っていたり、そもそも法律は万能ではなく必ずしも正義が実現されるわけではないといった限界があったり、そういう部分が私の性格に合わなかったのである。

 特に印象的だったのは、ある憲法の授業だった。その時、90分の講義時間をフルに使って、教授がいかに自衛隊が憲法第9条に違反しているかを説明してくれたのである。そのロジックは実に見事で、私は説明を聞きながら教授の一言一句を聞き逃すまいと一所懸命ノートを取った。これぞ大学の授業だと感激したのだが、あとで冷静になって考えてみれば、憲法の条文を素直に読めば自衛隊が憲法違反である事は誰でもわかる。それをあそこまで見事に説明するという事に、むなしさを感じたのだ。

 
 近所のスーパーにポルシェに乗っていく必要などない。ある法律の条文について、○○説ではどうだとか、△△説ではどうだとか、そんな議論はバカらしくてしかたなかった。どっちでもいいじゃないかと思う私に、それが重要だという世界の水は合わなかった。しかも大学は、最初の2年間は教養課程という名の高校の延長のような苦痛の授業が続く。

 ようやく3年になって専門課程が始り、ワクワクしながら飛び込んだ法律の世界の実態に気付いたのは、4年になってから。今と違って、就職活動は引く手あまただったが、企業研究だとかその他の進路の研究などしている暇もなく銀行に就職が決まってしまった。

 今となっては、それでも良かったのだが、やはり同じ銀行員になるにしても、もう少し世の中の事を知って、たくさんの選択肢の中から選びたかったと思う。ひょっとしたら、自分にはもっと適している天職があったかもしれないと思う事もある。まあどんな職業であれ、プロとしてのプライドを持って一生懸命やる事が大事だから、そんな事は関係ないのだが・・・

 そんな事をつらつら思うのは、将来我が子にどんなアドバイスをするべきだろうかと、この頃よく考えるからだ。娘に対しても、いずれ結婚までの腰かけお茶くみOLにはなって欲しくないし、息子はなおさらだ。上場企業でも倒産するし、リストラはあるし、今は優良企業でも30年後はわからない。JALだって会社更生法のお世話になるくらいだから、もう絶対安心なんて所はない。

 「どこへ就職するか」よりも、どこでもいいけど「どんな(やり方で)仕事をするか」がやっぱり重要だろう。プロ意識を持って、品質の高い仕事をしてほしいと思う。我が子に望む前にまず自分自身だな。まだまだ定年まで先は長いし、定年後も何とか働かないとのんびりはしていられないだろう。
ナボイ劇場を作った日本人のDNAを受け継ぐ一人として、恥ずかしくない仕事をしないといけないし、そうした上で、我が子にも背中で語れるようでありたいと思うのである・・・


【本日の読書】
セーラが町にやってきた - 清野 由美 V字回復の経営―2年で会社を変えられますか - 三枝 匡






2012年10月23日火曜日

初めの一歩

 週末、突然小学校一年の息子がそばに来て、「パパ、ママがパパに野球のルールを教えてもらえって」と言ってきた。なんでもテレビで野球を観ようとしたら、妻にそう言われたらしい。どうせパソコンの前に座って遊んでいるだけだろうと思われたのだろう(まあ事実だから仕方がない)、そんなセリフが出て来たようである。他の事ならともかく、そういう事であればと息子と一緒に野球を観る事にした。

 時にセ・リーグのクライマックス・シリーズ。圧倒的有利を予想していた我がジャイアンツだが、予想外の3連敗の崖っぷち。負けたら日本シリーズに出場できないとくる。シーズンの圧倒的成績からして、それはちょっとないだろう。まあいい機会だから、一緒に応援しようと言う事になった(たぶん息子はこうして必然的にジャイアンツファンになるのであろう)。

 さて、説明を始めると、実は息子は何も知らないとわかった。
「今はツーアウトだろ、」
「ツーアウトって何?」
「・・・」
「つまり、ストライクが3つで1アウト、」
「ストライクって何?」
「・・・」
こんな調子なのである。

 考えてみれば、「将来プロ野球選手になりたい」と言いながら、さらに叔父さんに夏の甲子園に連れて行ってもらいながら、誰もルールなど教えていない事に気がついた。私も普段はほとんどテレビで野球など観ていないし、学校で友達だって教えてくれないだろうから知るはずもないのである。今さらながら当然の事に愕然としつつ、改めて1から教える事にした。

 ストライク3つでバッターは3振と言って攻撃できなくなる。アウト3つで「スリーアウト・チェンジ」、攻撃交代。幸い画面にはストライクゾーンが表示され、投げたボールの位置が点灯するから教える方も教えやすい。そう言えば昔はストライクを先に表示していたが、今はボールを先に表示している。日本人のメジャー進出が盛んになって、メジャーのテレビ放送が増えた影響だろうが、やっぱり違和感がある。それがカッコイイとでも思ったのであろうか。

 1塁と3塁とに引いてあるラインより後ろに飛んだ打球はファウルと言って、ツーストライクまではストライクに数えられる。ゴロで飛んだボールはバッターが着く前に1塁に投げないとアウトにならない。上に上がったフライは取るだけでアウト。一つ一つのプレーをその都度解説していく。一度に覚えられるはずもない。

 風呂に入っても続く。ピッチャー、バッターの他にファースト、セカンド、サード、ショート、外野はレフト、センター、ライトとポジションの名前を教える。興味津々の目で説明を聞く息子。慣れない言葉を一生懸命覚えようとする。自分もそうだったのだろうか、とふと思う。

 たぶん親父はそんな面倒見が良くなかったはずだから、一緒に観ながらあれこれと質問する私に、ぼそっと答える形で教えてくれたのかもしれない。あの頃は毎晩のように一緒にナイターを観ていたと思うから、そんな繰り返しで覚えて行ったのだろう。「野球狂の詩」、「ドカベン」、「あぶさん」など夢中で読んだ水島新司の漫画の影響もあると思う。

 戦術的な事は、近所の子供たちと一緒に野球をやりながら覚えたかもしれない。今の息子には、「1番バッターがノーアウトでヒットを打って塁に出たら、2番バッターはバントでランナーを送って3番につなぐ」などというセオリーを説明しても、まだ理解は難しい。たぶん私も時間をかけてルールやセオリーを覚えていったのだろうと思う。あの頃は、身の回りでは誰もが野球を観ていたし、やっていたと思う。

 今はサッカーも台頭し、昔は我が物顔だったナイター放送も、今はドラマやバラエティに押されてしまっている。時代の移り変わりもあるが、父と子で一つのスポーツを観て応援するというのも、何だか必要な事のような気もする。

 さて親子での応援の成果か、ジャイアンツはその日崖っぷちで踏みとどまる。さらに翌日から連勝して、ついに大逆転で日本シリーズ進出を決めた。まだ日本シリーズが何なのかよくわかっていない息子であるが、「一緒に応援しよう」と言ったら嬉しそうに元気な返事が返ってきた。

 自分がどれだけテレビの前で時間が確保できるかという問題はさておき、ジャイアンツの応援もだが、息子の野球に対する興味をこそ、応援してやりたいと思うのである・・・
 
             
【本日の読書】

ブランドで競争する技術 - 河合 拓 ドラマ「半沢直樹」原作 ロスジェネの逆襲: 2020年7月スタートドラマ「半沢直樹」原作 - 池井戸 潤




   

2012年10月18日木曜日

監督

 プロ野球はペナントレースを終え、上位チームはクライマックスシリーズに突入している。しかしながら、下位チームは来年の新体制への動きが活発化している。新しい監督が任命されたと言うニュースがちらほら出ている。WBCの監督も山本浩二に決まった。

 別にそんな新監督に興味があるわけではないのだが、監督といえば大学時代のラグビー部のS監督を思い出す。振り返ると、小学校の少年野球チームからスタートした我がスポーツ人生だが、実は“監督”とはあまり縁がない。少年野球のチームの監督以降、中学のバスケットボールでも高校のラグビーでも、指導者はみな“コーチ”であった。大学のラグビー部で出会ったのが、実は生涯二人目の“監督”であった。

 S監督は、正確に言えば三人目の監督だ。我々が3年になった年に監督に就任されたのである。二人目の監督は、いつも表情が硬く、むっつりとしていて、正直言って気軽に話しかけられるようなタイプではなかった。いわゆる“怖い”監督に分類されるタイプだ。

 甲子園の常連チームだとか、ラグビーで花園へ行くチームなどは、けっこう“怖い”タイプの監督がわりと有名だ。スポーツの世界では、厳しさが必要だからそういう怖い監督に指導されたチームが強くなるのも当然なのかもしれない。だが、個人的にはやっぱり怖いタイプは苦手である。そんな苦手なタイプの後に来たのが優しいタイプのS監督だった。

 説明は理論的。それまで考えた事もなかったチームの戦術を理論的に語ってくれた。チームスポーツでありながら、当時自分のプレーのみを追求していた私には「目からうろこ」の説明だった。子供の頃から筋金入りの「理屈屋」の私の心に、S監督の説明は見事に突き刺さったのである。

 練習中もあまり細かく指導を受けた記憶はない。しかしながら時折褒められた事はよく覚えている。大勢の部員が練習している中で、些細なプレーを見ていてくれたのに驚いたものである。当時私は、高校時代の「教えられたプレーを教えられた通りにやるスタイル」から脱皮し、自分なりにあれこれ考えて工夫をしていた時だったから、それが認められたのでよけい嬉しかったのだ。

 S監督にはよく褒めてもらった。重要な公式戦で、ライバルチームの猛攻に防戦一方となっていた時の事。相手選手の突進をゴール前でタックルで止めた。その時は必死で意識などしていなかったが、あとで「あのタックルは良かった」とS監督が言っていたぞと見ていた仲間が教えてくれた。その試合で勝ったのも嬉しかったが、褒められたのも嬉しかったのを覚えている。

 S監督の元での2年間は本当に充実していた。卒業する時は、いつか結婚する時はS監督に仲人をしてもらおうと思ったほどである。自分にも他人にも甘い私だからだろうか、褒められて伸びるタイプだったためであろうか、やっぱり私にとって指導者は、あのS監督のようなタイプが肌に合っている。

 卒業後10年ほどして大学のラグビー部のコーチを拝命した。S監督のようにやりたいと思ったが、なかなかどうして難しく、うまくはできなかった。1~2年の頃の怖い監督が、また監督に返り咲いていたが、現役の一人が「いつか監督にほめられたい」と語っているを聞いた。めったに人を褒めない人だったが、そういう“火のつけ方”もあるのだと知った。

 チームスポーツにおいて、監督の影響はやはり大きいと思う。野村監督なども、本から伺い知るだけだが、たぶん凄かったのだろうと思う。そしてそういう監督は、選手がチームを離れた後も影響を残すものだと思う。同じ卒業生ゆえ、S監督とは今でもラグビー部の集まりでたまに顔を合わす事がある。しかし、S監督は私にとって“先輩”ではなく、やっぱり“監督”なのである。

 あの2年間の指導は本当にありがたかったとつくづく思うのである・・・


【本日の読書】

ブランドで競争する技術 - 河合 拓 ドラマ「半沢直樹」原作 ロスジェネの逆襲: 2020年7月スタートドラマ「半沢直樹」原作 - 池井戸 潤





2012年10月13日土曜日

親父、本を読む

先日、実家に顔を出した。
普段あまり良い息子していないから、せめて顔を見せておこうと思ったのだ。
とりとめもなくあれこれと話をしていたら、母親が「そういえば、お父さん最近本を読んでいるのよ」と教えてくれた。見れば棚の上に文庫本が重ねられている。

親父が読書というイメージは私にはない。
一昨年膝の手術で入院した時に、暇つぶしにと何冊か差し入れしたら、またたく間に読んでしまい、ちょっと驚いた事があった。
どうやらその時から興味をもったらしい。

もっとも、その時私が差し入れた「容疑者Xの献身」を面白かったと言いながら、翌年自分で買って読み、私に「これ面白いぞ」と言ってきたのには笑ってしまった。
1年経って、読んだ事すら忘れていたのだ。
そんな親父が、最近になって自ら本を買って読んでいるなんて。
興味を持って積み重ねてある文庫本のタイトルを見てみた。

「ダイイングアイ」、「プラチナデータ」、「こころ」、「吾輩は猫である」
「へぇぇ」と思った。
東野圭吾はわかるのだが、夏目漱石は意外だった。
そう感想を伝えたところ、タイトルは知っている有名な本なのに読んだ事がないから、という答えが返ってきた。「本なんて読む暇なかったからな」とポツリと親父が呟く。

「言ってくれれば、持ってきたのに」と親父に言う。
私も夏目漱石はかなり読んだ。
手放せなくて、まだ自宅の本棚のどこかにある。
それらはみんな学生時代に読んだものだ。
夏目漱石以外にも国内外の作家の名だたる本は、この時期に読んでいる。
それだけ暇もあったからでもある。

そういう親父は中学を卒業するとともに、生まれ育った長野県は富士見の町をあとに上京。
知り合いのつてを頼って印刷会社で勤め始めた。
その時は朝の6時から夜の12時まで働かされたとよく聞かされた。
労働基準法も何もあったものではなかった時代だ。

以来、印刷一筋。
日本全体が猛烈に働いていた時代。
会社員時代も独立して自営で仕事をしていた時代も、遅くまで働いていて、きっと本を読むゆとりなどなかったのだろう。そう考えると、自分がとっくに読み終えて“卒業”した文豪の小説を今になって読んでいる親父の姿がちょっと切なく見えた。

学生時代は当たり前のように本を読み耽っていた。
考えてみれば親父はその年の頃はもう必死で働いていたのだ。
好きなだけ本を読んで、ラグビーやって、もちろん授業にも当たり前のように出席して、合コンなんかにも行ったし、やはり随分恵まれた生活だった。
さすがに車を乗り回すほどではなかったが、充実した高校・大学時代を過ごせてありがたかったと思う。

「今度来る時何冊か持ってくるよ」と親父には伝えた。
若い頃できなかった事を歳とってやろうと思っても、できる事とできない事がある。
だが本を読む事は簡単だ。
「でもなぁ、前の日に読んだところもわすれちゃうんだよなぁ」と親父がぼやく。
1年前に読んだ本を、読んだ事すら忘れるのだから無理もないかもしれない。
「でも何回でも新鮮に楽しめていいじゃないか」
そんな答えを返しておいた。

この週末は家の本棚の棚卸だ。
夏目漱石以外にも芥川龍之介もあるし、三島由紀夫もあった。
個別には「氷点」なんかもオススメだ。
外国のものでも「風邪と共に去りぬ」は本で読んでもいいし、「エデンの東」もいいかもしれない。現代の作家では浅田次郎が断トツだろうか。

今度持って行くのを選んでいたら、結構な量になってしまった。
どんな感想を持つのだろうかと思うと、ちょっと楽しみな気がする。
それに手に取ってみたら、久しぶりに自分でも読んでみたくなった。
20代の頃と比べれば、遥かに人生経験豊富になったし、またあの頃とは違った感想を持つかもしれない。

普段読もうと思って積み上げている本の上に、夏目漱石も置いてみる事にしたのである・・・


2012年10月6日土曜日

祖母

 先週末は毎年恒例の義理の祖母を囲む食事会であった。毎年敬老の日にやっているのだが、今年は子供たちの運動会に義理の母と義理の妹夫婦が遊びに来ていたので、どうせなら大人数でと、この日にずらしたのである。義理の祖母は今年90歳。我が家の子供たちからすると「曾婆さん」という事になる。祖母からしても曾孫は我が家の子供たちだけだから、双方にとって貴重な存在と言える。

 その祖母は今義理の叔母夫婦と神奈川県で暮らしている。毎年の祖母を囲む会は、近所のバイキング・レストランへ行くのが恒例になっている。しかし、みんな食べるのに夢中だし、耳の遠くなった祖母はみんなの話が聞こえないと言い、今年は伯母の家で「家パーティー」という事になった。正直言ってがっかりしたのであるが、まぁ主役のリクエストだから仕方ない。

 いつもよりの大人数の家パーティー。叔母もたくさんの食事を用意してのおもてなし。祖母は希望通り、近くでみんなに囲まれて幸せそう。最初に孫姉妹(つまり我が妻とその妹)、続いて妹の夫、そして私、続いて曾孫と入れ替わり立ち替わり話し相手になる。

 祖母もいろいろ語ってくれた。大正11年8月8日生まれ、8人兄弟の8番目。一昨年の8月8日の88歳の誕生日は、8続きで感無量だったと言う。生まれは北海道の朝日村(今の士別市朝日町)。20歳でお爺さんと結婚。そのお爺さんは学校の先生で、転勤に伴って北海道各地を転々としたらしい。

 住まいはいずれも学校の敷地内の官舎だったという。給料の他に僻地手当、寒冷地手当等がついていたので、給料5万円は全部仕送りしていたと笑って語ってくれた。我が家の娘が生まれた時に、一度だけ札幌に訪ねて行った事がある。そしてそのあとすぐ事情があって、祖母は神奈川の叔母の家にきた。「北海道で80年、こっちに来て10年」としみじみ語ってくれたが、そこにはもう帰る事のない北の大地への思いが滲み出ているようだった。

 祖母お手製の貝の飾り手先が器用で、折り紙や裁縫でいろいろと作ってしまう。食いしん坊で、いまだに食欲は旺盛。足腰は弱ってしまい、歩くのは大変らしいが、今はデイサービスを利用して気晴らしをしているらしい。我々みんなで交代で話を聞き続け、曾孫たちは折り紙を教えてもらい、祖母には楽しんでもらった様子。

 翌日叔母からお礼の連絡をもらった。なんでも次の日も祖母の興奮はさめやらず、デイサービスでは会う人会う人に曾孫たちが遊びに来た事を語っていたと言う。そんな話をする叔母も嬉しそうだったと言うし、そう報告する妻も嬉しそうだったし、それを聞いた私もいい気持ちだった。その日は祖母の喜びが我が家にも伝播してきて満ちていた。


 また来年も、と思う。今度もレストランでなくてもいいだろう。私の祖父母はもういないから、義理であっても貴重な存在である。また行って、いろいろな昔話を聞かせてもらおうと思うのである・・・





【本日の読書】
心を上手に透視する方法 - トルステン・ハーフェナー, 福原美穂子 ふがいない僕は空を見た(新潮文庫) - 窪美澄